2011年5月11日水曜日

中野の生民軒原科牧場跡地と牛カルビ炒め定食@寿楽


白地図見つけたんですよ、中野区の白地図。
正確には、白地図、見つけてもらったんですよ、図書館で。
良いとは聞いていたのですけどね、白地図。
いや、かなりのものでした。その威力たるや、かなり。
ああ、こんなとこにも川があるのかとか、こんな支流まであるのねとか。
しかも、白地図にも色々あるみたいで、
また探しておいてくれるそうです、図書館の人。
中野中央図書館。ありがたいです。
さて。

ちょっと古い白地図。1980年位に図書館に寄贈された地図かな、うろ覚え。
我が家の近所を眺めていたのです。ぼーっ。
そしたら、何かおかしな場所を見つけました。
このニョロニョロサイン。川の跡です。



カラーのとこは私が付け加えた部分。
水色の線は有名な桃園川。近いね。なんだろーって思ってました。

また別の日。図書館で面白そうな資料がないか探していたとき。
この場所に牧場があったとの記述がありました。なんと、牧場!

私が愛隣幼稚園に入園する前のこと(適当)
大正後半から昭和初期まで、東京には沢山の牧場があったそうです。
その数、23区内では260箇所とのこと。
明治維新以後の洋風化で牛乳やバターやチーズの需要が増大。
でも今みたいな生鮮食品の管理技術や流通もない時代。
近所に小さな牧場が沢山できたみたいです。
そういえば、みなみ台支流とかを散策した時など、
近隣に牧場があったって話、聞くなあとは思ってました。

これはiPhoneのすてきなアプリ、
東京時層地図の現代と大正の地図の比較。
同じ場所に矢印をフォトショップで付け足してみました。
まだ大久保通りも中野通りも無い大正時代の中野の牧場。
長閑ですね。

『公社ニュース・まちづくり館』という謎の資料。
その中の「中野のまち今・昔」というコラムのような記事に、
この牧場、生民軒原科牧場(せいみんけんはらしなぼくじょう)の記事がありました。
大正8年に始められ、昭和初年まで続けられた牧場だそうです。
牛舎には網戸がかけられ、牛一頭ずつシャワーが浴びられるなど、
当時の最先端をいく模範的牧場であったとのこと。すごいね。
名称は宮園牧場だったとか、
もう1ブロックずれた場所ではないかという説もあるようです。

さて、我が家からスープも冷めないような、近所の話。
あいにくの雨でしたが、ランチついでに行ってみました。

    

なんと、開渠ですよ奥さん!写真はクリックすると大っきいの見れます。
このワンブロックの区画の中で敷地によって高低差があるのですが、
その間をまっすぐに貫く開渠。いや、良い開渠。
近隣の人に話を聞いてみたりしました。
まあ予想通り「ドブ」と呼ばれていたとのこと。
区画の北西側の一部が牧場であったという事も教えてくれました。
そしてこの開渠の水の流れは南西へ。
桃園川と逆方向に流れて、下水管へ入っていくとの事でした。
久々に開渠を見たよ。
やっぱりいいね。


さてさて、牧場に来たからには牛でも食べていきましょうw
この番地内にある、中華料理、寿楽。
家から近いし、育ち盛り仕様の盛なので、何度か来てます。
今まではスタミナ丼とか五目焼ソバとかやさぐれたものを食べていたので、
今回は牛カルビ炒め定食800円です。



絶品とか美味ってわけではないですが、
なかなかのB級具合。想像を絶しない味で、
でもご飯が進むし美味しいし盛りもいいし、
近所にあって欲しい安心できる中華料理屋といった感じです。
一言で言うのなら、安定感。



まあ、特に暗渠記事でもないのですが、一応暗渠カテゴリかしら。

暗渠を散策していると、
その土地の歴史や社会風俗に出くわしたりします。
ただ単に水の流れを追うだけではない、
歴史や地理や社会などの知識や経験が、
複合的に組み合わされる楽しみがあったりしたりします。

私みたいな初心者でも、その楽しみを味わうことができるので、
もし暗渠初心者で何していいか判らないなんて人は、
私や暗渠者の皆様のBlogの閲覧、図書館での資料探し、
そして何より現地を散策してみることなど、
色々してみてもいいのかもしれませんね。

なんか良い風にまとめようとして失敗した感じです。
んがんぐ。

2 件のコメント:

  1. 暗渠を辿ったり調べていく際に出会う、その地域のささやかな歴史は楽しいですよね。それにしても白地図の水路が残っていたとは。

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  2. もう本当に些細なことかもしれませんが、土地の歴史と暗渠は密接にかかわっているのだなと感心しました。白地図、すごいです。

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