2011年10月11日火曜日

小淀川リベンジ

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うどん、ラーメンラーメンと麺の記事が続いて、
次は地面の記事です。久々の暗渠。

いや、暗渠はね、色々ふらふら見てるのです。
ただ川の最初からどこかに合流するまで、とか、
どういう経緯があっての暗渠だとか、
あまり気にせず、ほぼ散歩してるだけ。
それはそれで楽しいんだけどね。

うろうろ色ちょろしているうちに、
ネタが溜まってきたので、んじゃ書いてみようと。

とはいえ、実はよく調べてません。
桃園川マスターことnama様の秀逸なブログとかがソースです。
桃園川支流を歩く ”小淀川”を追え!

いや、以前も気になってこの辺を歩いていたのですけどね。
その時の記事などをまず参照してもらって、今回の記事。
神田川の西側、中野区の東端に、神田川と並走する川があったという話。

うねる神田川から派生した支流の桃園川までの部分が小淀川なのか。
桃園川から北、小滝橋近辺までの支流や、蛇行する神田川の残滓を、
小淀川とするのか。それはそれ色々調べたりしなければいけないのですが。
ここでは(便宜上)全部小淀川とします。

正直、ダヌダヌ麺リベンジの続きですw

断片的な情報の集積にしても、
アダルトビデオのモザイクを目を細めてみる方式で、
神田川の左側にうっすら川筋みたいなのが見えるはず、

より大きな地図で 中野駅周辺の暗渠 を表示


ダヌダヌ麺の続きなので、下流方向からの散策です。
例の中野区の1970年代とおもしき白地図などを見ると、
中野区のおたき公園の脇から水路が始まってます。

しかし特に高低差があるわけでもないところから、
突然出現しちゃうのもなんだか。で、周りをさがいてみます。
北西にちょっとそれらしい通路があって、その向こうは小高い丘になっています。
瀧山稲荷大明神などもあって、そこから水が湧いていたのではないかしら。
で、この小淀川との流れに合流する、と。
で、合流した所で、小瀧水車があって、
明治~大正の頃(地図:左)は、製粉業とか営んでいたっぽいです。

 

ただ、製粉のために用水路を作ったかと言われると、
江戸時代の地図(地図:右)なんかではもっと北で合流するような地図もあるので、
時代時代によって色々移り変わったのかもしれません。
こんな調子なので、決まった一本の川としての小淀川は、
なかなか掴みきれません。


このあと、いつもの「じゃぶじゃぶ池」などを見つけながら、
散策は上流へ南下していきます。
水路らしい道、そしてそこと神田川の間に石垣の護岸。
神田川が今のようにきちんと治水されてない時代は、
その護岸あたりまで、川だったり湿地だったりみたいな、
水量や何やらで曖昧な感じで流れていたのかもしれません。


その後、中央線・総武線のガードの下を通ります。
中央緩行線?急行の対義語なのかしら緩行。

桐々谷。明治の地図を見ると、中野区一丁目あたりの旧地名みたいです。
これ、たぶん後の氷川町のあたり。結構古い地名から採用してるのねガード名。
甲武鉄道の時に決められたままなのかも。

東中野一丁目(旧氷川町)の界隈には、戦前に大臣や高級軍人が多く住んでいた。
東中野二丁目および三丁目は高台になっており高級住宅地となっている。
東中野四丁目は駅周辺の商業地となっている。
東中野五丁目界隈(小滝台)は周恩来が日本へ留学していた時に下宿していた。

昭和の旧地名的には、この辺も参考になります。
東中野一丁目 = 氷川町、川添町、宮園通一丁目の各一部。
東中野二丁目 = 上ノ原町、高根町の各全域、氷川町、宮園通一丁目の各一部。
東中野三丁目 = 桜山町、昭和通一丁目の各一部。
東中野四丁目 = 住吉町の全域、桜山町、小滝町、氷川町の各一部。
東中野五丁目 = 小滝町の一部

明治時代で言うと、東中野駅は甲武鉄道の柏木停車場って名称の駅でした。
大正6年(1917年)に改称されてる。
ちなみに柏木は中野ではなく、新宿区(淀橋区)内の地名。
港区にあるのに品川駅みたいな。

特にネタもなさそうなので、東中野トリビアで間をとりつつ、
小滝町から川沿町へ。この辺からは前回の記事と重なる所も多いです。


大久保通り付近、というより、桃園川と神田川の合流点付近。
例の白地図では複雑に水路が交差してます。
第六天神社を見ても分かる通り、
先ほどと比べてもだいぶ高低差があり、
古い石垣か何かで護岸っぽくなってます。

第六天神社もいろいろ興味深い神社なのですが、
また別の話。

例の白地図、ニョロニョロした水路を表すもの、
桃園川、神田川に色をつけて見ました。マウス、書きにくいね。
昭和63年(1988年)に統廃合された中野簡易裁判所がまだります。

この宮川橋と書かれた場所の近くで、
そこに住んでいる人からお話をお伺いしました。
50年ほど前にひっこしてきたらしいですが、
その頃は宮川橋と書かれた場所の水路はなく、後々できたとのこと。
その頃は少し穴を掘れば水が湧いてきたけど、
地下鉄丸ノ内線を作り始めてから急に水が湧かなくなってきたと。
そしてその水路はやはり「ドブ」とよばれていた、と。
大六天橋と宮川橋を観た記憶はない、とも。

桃園川と神田川の合流地点については以前の記事を。

さて、その続き、桃園川以南。この辺から旧地名で小淀町。
確認できる上流はマルエツプチの裏から始まります。
またマルエツプチ。暗渠のそばに作るのが好きなのかな。
暗渠サインの一つなのかも、マルエツプチ。
安く広い土地が必要だったのでしょうね。


ここから民家の裏、崖の下を通って行くので、しばらく川筋は見れません。

三階四階分くらいの高低差の、
その崖の下にデッドスペースがありますが、もちろん確認はできません。

崖の上は山岡鉄舟の旧邸宅跡というよくわからない場所。
禅宗寺院になってたりします。閑静。

このあとは、前回の記事の通りっぽい気がします。

前回の記事のもう少し南側、淀橋より上流、豊水橋より下流。
やんわりこの辺から神田川分水として、小淀川が始まったのかも。
これは戦前の地図ですが、
戦災や高度成長期の色々や東京オリンピックなどを経て
その後の地図からは小淀川は消えています。

というか。そういう話って上流の方から書いたほうがよさそうな気がしました。

淀橋の当たりから南に水路が見えますね。
この後、そちらの方も行ってみたのですが、
また別の記事で書くか書かないかみたいなノリです。

2 件のコメント:

nama さんのコメント...

こんにちはー。ご紹介ありがとうございます。
小淀川の全貌ってむつかしいですよね。自分は4回も記事書いてるのに、毎回間違いが発覚する(コメント欄にて)というオソマツなことになってます。。おまけに川跡らしい写真もあまり撮れないし・・・。味噌さんの写真は良い感じですねぇ。崖上からの写真、よく撮れましたねぇ!
ダヌダヌメニュの話もおもしろかったですー。美味そうだし!小淀川沿いには食べ物屋さんがあまりないなあ、と思ってましたが、足を延ばしてダヌダヌ、が良さそうですね。

味噌max さんのコメント...

いえいえ、今回の記事はナマさまあっての記事でした。
小淀川の全貌、難しいですね...断片的な情報の寄せ集めになりそうなので、目を細めてみる方式が良いのかもしれません。

桃園川合流地点はよくわからないお店が多そうですが、中野からは交通の便が良くないので、飲んで帰るのはつらそうです。ダヌダヌメニュ、一度お試しくださいw